日記「花ひらく人生」
2008年08月10日
存在の炎と影。
目の前に向き合う相手は自分の内側にあるものを反映する存在で、
気づきと学びを運んでくるのだと。
相手の嫌な面も自分へのメッセージだと謙虚に受け止めなさいと。
たしかに、その通りだと思います。
でも「鏡の法則」を意識しすぎるのも、どうなんでしょう?
相手の行動から何かを学び取ってやろうという思惑や、
自分の世界観で相手を切り取ろうとする
新たなエゴが生まれてくるのではないでしょうか。
「わたしは何故この人と出合ったのか?」
「この人と出合った意味はなにか?」
「この人のこの発言は、自分にとって何のメッセージなのか?」
そこにあるのは(わたし)という意識のオンパレード。
人とのつながりに意味とか価値を求めてばかりでは、
人間関係がやせ細っていくような気がしてしまいます。
目の前にいる相手の息遣いを感じながら、
「いま共にここにあること」を五感で味わう。
人と人とが同じ時間を過ごす一番の喜びを忘れてしまいそうです。
果たして、人をほんとうに「わかる」ということなど、あるのでしょうか。
他人から(あなたはこういう人ね)といわれたときの
ざわざわとした違和感は、誰もが感じたことがあるでしょう。
誰かを(わかった)と思った瞬間に、相手にラベルを貼って標本にしてしまう。
上手に整理できたと満足しているけれど、でも箱の中にあるのは
生きているその人とはまた別の存在です。
自分が受け止めている「わたし」も、他人が理解する「わたし」も
「わたし」という存在の一部ではあるけれどすべてではありません。
存在の本質は、個々の理解を超えた別の次元に存在しています。
どちらが捉える「わたし」もわたしという存在の
本質の影のようなものではないでしょうか。
「わたし」という存在の本質は、形となって固まることのない炎のようなもので、
常に揺れ動いて捕まえることはできない。
その炎の影を、人は違う角度からそれぞれの視点で眺めているだけ。
もしかしたら。
「わたし」も「あなた」も、実は同じひとつの炎から生まれる
異なった影であるのかもしれない。
大切な人と見つめ合い、語り合いながら、
幻のように、ふっとそんな思いが通り過ぎていきました。